2011-05-31

不信任案、鯛アラの鍋、鶏水炊き

自民党が内閣不信任案を提出し、それに公明党と、小沢一郎およびその一派が賛成する、というかまえになっているようなのだが、これってどうなのか。

まあまずたしかに、菅首相のリーダーシップが、発揮されているようにはまったく見えない、ということがあるわけだ。たしかにそれは見えない。震災以前から、それは一貫して変わっていないが、菅首相はいつも、消費税増税みたいなのが典型だけれど、自分ひとりで訳のわからない、誰も支持しないような方針を打ち出して、けっきょくそれを引っ込めるみたいなことになるか、または何か問題がおこると、それじゃダメだろう、というような解決策を打ち出して、けっきょくそれでは解決できずに、泥沼にはまっていくということを繰り返している。このひとは、全員が自分の腹心であるような、中小企業の社長とかにはいいのだろうが、すべての物事を機関的に動かしていかなければならない、大企業の社長とか、一国の首相とか、そういうものには向いていないということだ。国という船を、前にも後ろにも、まったく動かすことができず、ひとりでじたばたしているような印象がある。

近年、首相としてリーダーシップを発揮したといえるのは誰だったかと考えてみると、たとえば小泉元首相だったりするのじゃないか。小泉元首相は、歯切れのよい発言をし、抵抗勢力をあぶり出し、それをバッタバッタと切り捨てて、小泉構造改革を見事に実現していった。僕自身もそれに喝采をおくり、郵政選挙では小泉元首相の側に投票し、その勝利をよろこんだ。

しかしその後、小泉元首相がけっきょく何をしたかを、よくよく検証してみると、医療改革によって医療制度を崩壊させ、地方の医師の決定的な不足をまねいたり、大学改革で、研究費が削られた教授が、とにかく利益優先の目先の研究に走らせるようにしたり、大企業の言うことを聞いて派遣法を改正して、それによって派遣切りが横行し、貧困が深刻な問題となったり、それでそうやって構造改革してみたはいいけれど、日本の財政赤字は相変わらず減らなかったり、というところで、まったくいい話を聞かない。発送分離などの電力改革が、2003年頃に行われる機運があったが、経団連の言うことを聞いてそれをつぶしたのも小泉元首相だったのだそうだ。それで小泉元首相は、自分に累がおよばない、まったくもってうまいタイミングで、首相を辞め、さらに国会議員もやめて、自分の息子に地盤をゆずり、またその息子も小泉元首相ゆずりのさわやかキャラで、「自民党は過去を反省しなければならない」とか、言ってみたりするものだから、人気を博したりする。リーダーシップってなんなのよ、それって単なる世渡り上手なのじゃないか、と思いたくなるところもあるわけだ。

そう考えると、下手なリーダーシップというものは、むしろ日本を誤った方向へ進めてしまうことにもなりかねないわけで、そうであるならば、変なところへ進んでしまうよりも、鈍くさくて日本をどちらにも進められない、菅首相のほうが、まだマシだ、ということになったりするのじゃないか。つまり菅首相を批判するためによく使われる、「リーダーシップのなさ」というものは、本質的にはあまり大事なことではないのではないか。それよりいま、日本がこんな風に立ち往生しているというのは、リーダーシップの問題であるというよりも、日本がどちらへ進んでいったらいいのかという、それ自体が見えないことが原因なのじゃないか。そういうことになってくると思うのである。

ところでいま不信任案を出そうとしている自民党は、菅首相のリーダーシップについてはうんぬんするが、それでは日本をどちらに進めていくか、ということについて、対案を出しているのか。そういう話はまったく聞いたことがないのじゃないか。だいたい自民党というのは、これまで何十年にわたって、原発を推進してきた張本人である。菅首相の対応を批判するのなら、その前に、原発を推進してきた自分たちの責任について、きちんと総括してもらわなければならないところなのじゃないかと思うけれど、そんな話はついぞ聞こえてこない。

また不信任案に賛成するという小沢一郎も、だいたい、菅首相が首相になったというのは、小沢一郎がダメだったからだ。小沢一郎は、自分が党首をやめるということになったとき、党首選の時期を早めて対抗馬が出ないようにし、自分の意中のひとだった鳩山元首相を押し立てたひとだ。鳩山元首相を神輿にかついで、自分はバックでそれを操るつもりだったところが、それがうまくいかず、けっきょく鳩山元首相といっしょに、幹事長を辞任した。それで菅首相が首相になったということなのだから、小沢一郎は菅首相に、礼を言う必要こそあれ、そうやっていちいち批判するというのは、筋違いもはなはだしいのじゃないか。

今回の不信任案というのは、そういう、自分の責任には頬っかむりをして、その責任をひとに押し付け、攻撃ばかりするひとたちが、やろうとしていることなのじゃないかと思えてくる。それってどうなんだ。それが政治というものなのか。

いま日本は、かなり大きな岐路に立っているといえるのじゃないか。これまでの経済成長路線を、かわらずに堅持するのか、それともそれを脱原発ということもふくめて、修正しようとするのか。それを修正するというのなら、これからの日本は、具体的にどんな方向に進み、国民の一人ひとりは、どのような生活を送ることを目標とすべきなのか。そういう選択を、しなければならないということなのじゃないか。そういう大事な時、下手な方向へ進んでしまうくらいなら、どこへも進まず、ただ流されているだけのほうがマシだと、いう気がしてくるのだが、どうなんだろう。

きのうの晩めしは、安かった鯛のアラを買って鍋。

昆布だしにたっぷりの酒、それにみりんと淡口醤油で、好きな野菜といっしょに炊くだけという、簡単な話。鯛はただ塩焼きにしてももちろんうまいし、こうやって鍋に入れても、また煮付けても、どうやってもうまい。さすが魚の王様だ。

アラを鍋に入れるという場合、注意するのはひとつだけ。湯通しをして、それから水でていねいに洗い、血のかたまりやうろこ、ぬめりなどをきちんと取っておく。あとはふつうに、アクを取りながら煮れば問題ない。

酒は福島、大七からくち生もと。ピリっとした辛口の中に、甘みと、それから上品なコクと風味があり、単なる淡麗辛口とはぜんぜんちがう。福島というのは、無骨なんだが、単に外見にとらわれず、人間らしさを大事にするという感じがする。これはやはり、会津っぽの伝統なのか。

おとといの晩は、鶏水炊き。

鶏もも肉と好きな野菜を、昆布だしに酒をどばどばと入れた汁で煮るというだけだから、簡単だ。

ポン酢に唐辛子をふったタレで食べる。

翌日は言うまでもなく、その残り汁をつかっておじや。塩とコショウで味を付ける。これはいつもながらたまらない。