2011-05-02

鯛アラの煮付け

「現代思想5月号」、僕は掲載されている東日本大震災にかんする30編の論文のうち、半分以上おもしろいと思えたから、これはけっこうな確率じゃないか。でも僕はいま、東日本大震災についての情報は、どんなものでも興味深いということになっているから、これは現代思想が優れているといっているわけではない。この前に、これだけ熱中したのは「オウム真理教」だった。このときも雑誌の特集号とか、けっこう買ったもんだ。

現代思想でおもしろかった論文を、自分の勉強も兼ね、いくつか紹介したいと思っているのだけれど、今回は
矢部史郎「東京を離れて」
というもの。

矢部史郎氏はウィキペディア
によれば、1971年生まれの思想家なのだそうだが、自身のブログ
http://piratecom.blogspot.com/
をみると「海賊共産主義へ」というタイトルになっていて、現代思想の著者肩書きの欄にも、「海賊研究/思想史」という、なにやら怪しいものになっている。

矢部氏は、この「東京を離れて」というタイトルのとおり、もともと東京に住んでいたのが、3月11日に震災が起こって、もう12日には、小学生の娘さんを連れて実家のある愛知県に疎開をし、今ではそのままそこに住み続けるという決心をした。仕事をどうしているのだか、よくわからないのだけれど、奥さんにも相談せず、一人で決めたのだそうだ。

矢部氏は「首都圏は被災地」であるという。福島原発が吐き出す低線量の放射能物質が、現在でも東京にも、降り続けているのであり、実際原発の状況は、いまだ到底落ち着いたとはいえず、いつ大破壊が起こらないとも限らない。
「危機的状況では、リスクを過小評価するよりは過大評価する方が生き延びる確率は高い」
のであり、地面に落ちているものでも何でも、拾ったり、口に入れたりする子供を抱えて、放射能で汚染された東京で暮らすことはできない、ということが、決心の理由なのだそうだ。

矢部氏は原子力災害の大きな特徴として、
「対処すべき問題が大きすぎて、思考停止に陥る」
ということをあげる。今回の事故で放射能が降りそそいだ範囲は、宮城県から神奈川県まで一都八県、人口にして4,530人。日本の総人口の3分の1におよぶ。これだけの大きさの地域におよぶ問題について、人々の選びとる態度は、「問題を深刻に考えないこと、または、まったく考えないこと」ということになる。

かつて浜岡原発運転差し止め訴訟で、「複数の非常用発電機が起動しなくなる」という事態について、原子力安全委員会の斑目委員長は、
「そのような事態は想定しない」
と発言している。また
「割り切らなくては原発の設計はできない」
とも発言していて、本来想定される危険を、ないこととして考えるということを続けてきた。なぜなら、
「ありうる危険性とそのために費やされるべき労力とを正しく検討すれば、原子力発電という不合理な事業を続けることができないから」
なのである。

「このような原子力政策の冒険に、4,530万人の人々が付き合わされ、巻き込まれている」
と、矢部氏はいう。国内の多くの報道機関も、問題を過小評価しようと躍起になっているし、住民の側にしたって、仕事もあれば、ローンを組んでいる家もあるということになれば、関東が低線量の被爆地帯になったという現実を、受け入れられるものではない。そんな問題はないことにして耐え忍ぼう、ということになるのであって、「深刻な事態は想定しない」という原子力産業の規則は、被災地住民の一般的な規則となって普及しつつある。

しかし被災地のすべての住民が思考停止に陥っているわけではない。今回の災害を冷静に受け止め、被災を自覚した住民は、東日本からの移住を現実的な問題として考えている。政府が東北や関東の被爆状況について、
「『ただちに健康に影響をおよぼすものではない』と繰り返し発表しているが、これは避難・移住の判断を住民の『自主性』に委ねたものと解することができる」
という矢部氏のことばは、たしかにそのとおり、「今後長期にわたっては、何らかの影響はある」ということが言われているのだから、それにたいしてどうするかは、自分で決めてくれ、ということになる。

政府にしてみたら、避難地域を正当に確定しようとすると、巨額の補償をしなければならなくなるなどという問題があるため、決定を住民のがわに押し付けようとしているとも考えられるわけだが、そうなると住民のほうは、自分が今もっている仕事や財産を大事とおもうのか、それとも出産や育児、教育、遊びを大事とおもうのかということについて、否応なく、自分で決めなければいけないという状況に叩き込まれることになる。「被災地に居残る」ということ自体が、すでにひとつの決定なのだ。

「災害の圧倒的な力を前にしたとき、人は一人になる」
と矢部氏はいう。人智を超える圧倒的な暴力が自らの生命を侵そうとするとき、他人と談合しても何にもならない。自分の生命について、誰が責任をとってくれるというものでもないし、また自分が生きるということについて、誰の了承を得るということでもない。そのような状況で、人間の生死は「私的なものに支配される」のであり、そういう私的なものの回復が、
「災害後の社会に新しい動力を与える」
と、矢部氏はいうのである。

昨日は休日で、静かな街に、春のあたたかい雨が降る、なんとも気持ちのよい天気だったので、ずっと家にいるのも何だから、「ikoi cafe」でランチをした。

昨日のランチはタケノコ入りのドライカレー、プリン付き。

ikoi cafeのママは、最近結婚したのだが、子供はどうするのか聞いたら、自然にまかせて、ぎりぎりまで店を続け、すこし休んで、またすぐ子供を連れて復帰するつもりだそうだ。最近「キャットカフェ」とかいって、猫がいる喫茶店があったりするが、ここは赤ちゃんのいる「ベビーカフェ」になるのかもしれない。

晩酌は鯛アラの煮付け。ゴボウ入り。

湯通ししてから水でていねいに洗ったアラを、水と酒をあわせて2カップに、砂糖、みりん、醤油でこってりと味をつけた汁で、ペーパータオルの落としぶたをして、強めの中火で20分ほど炊く。醤油ははじめから入れずに、徐々に注ぎ足していくようにすると、味がしみやすい。