2011-04-14

豚 汁

このところ毎日午前中に3時間ほど、本の原稿を書く時間をとっていて、僕はブログもいちおう、「文章の練習」のつもりで書いているのだけれど、それとは全然ちがう、長編で、しかも専門的な内容をふくむ文章だから、そういうものを「書く」という体験そのものが、初めてのことでなかなかおもしろい。
前にもちょっと書いたことだけど、その本を通して伝えたい内容というのは、わりとはっきりと頭の中にはあって、それから大まかな構成も決まってはいるのだけれど、それはどちらも、頭の中でふっと思い浮かべることができる程度のほんとに大雑把なもので、それ以上くわしい内容とか、ノートにして整理したりとかまったくしていないのだ。
いやとにかく、そんなに長い本をひとりで書くということ自体が初めてのことだから、実際どういうことになるのか想像がつかず、とにかく書きはじめてみないと何もわからないということなのだよな。
実際僕は、このブログを書くのも、内容を詳しく考えたりとかまったくせず、結論がどうなるのかわからないままに書きはじめて、書きながら考え、なんとか最後までたどり着くというようにしているのだ。

これは小林秀雄がそういうふうにして文章を書いていたというから、僕も真似してやりはじめたということで、小林秀雄は「自分は何かを書こうとしないとものが考えられない」とまで言っている。文章を書くということは、自分の中にすでにある内容を、紙の上にそのまま取り出してみせるということでは全然なく、ことばにはことばの、独自の制約や規則性というものがあって、その範囲において構築されるものであり、それは書いてみて初めて、書いている本人にとっても感じ取れるものとなる。そういうことば自体の制約や規則性が、ひとつの文を書いてみると、次の文をその前の文が呼び込むというように、文章を自律的に組み立てていくという側面があるのであって、それは決してあらかじめ計画できることではなく、その時その場で、実際に起こることであるということなのだよな。

小林秀雄というのは、もちろんその時々で論じる対象はいろいろと変わるのだけれど、言っていることは終生変わらず、まったくおなじ、ひとつのことであったように僕にはおもえる。それは小林秀雄の最後の長編「本居宣長」において、「もののあはれをしる」という、本居宣長のことばとして表現されていることなのだけれど、小林秀雄はドストエフスキーについて書くときにも、モーツアルトについて書くときにも、ゴッホについて書くときにも、けっきょくいつでも、おなじ内容について書こうとしていて、それをものすごく平たく言ってしまえば、「芸術における“創造”とはなにか」ということで、小林秀雄はいつも、天才が生み出した芸術表現が、いかに生み出されたのかを追体験しようとするのだ。そして小林秀雄にとっては、創造行為とは、まさに自分が文章を書こうとするときに体験することそのものであったということなのだ。

僕は前に勤めていた会社を辞めようとおもって、でもすぐには辞められずにいた1年のあいだに、小林秀雄の全集をすべて読んだのだけれど、それから会社を辞めて、その後に自分に引っかかってきたものは、「マイケル・ポランニー」にしても、「生物記号論」にしても、「郡司さん」にしても、言わんとすることは、根本的にはおなじなのだよな。
それはもちろん、僕の個人的な趣味によるところもあるとはおもうけれども、いろいろ見ているうちに、そういうことばかりでなく、けっこう昔から、科学の主流に対抗しながら、脈々とつづく思想があるのであって、それはおもに哲学の分野でいわれていることで、「生命哲学」と呼ばれたりもするのだけれど、「生命とはなにか」ということについてのことなのだ。
小林秀雄も、そういう哲学者である「アラン」や「ベルクソン」といったひとたちの影響をうけ、そこからものを考えはじめたということなのだよな。

小林秀雄はだから、もし「創造」とか「生命」とかについて論じようとするのなら、それを論じた文章そのものが、創造活動の結果でなければいけないし、生きたものでなければいけないと思っていたとおもう。だから、書かれる内容だけでなく、それをどのように書くのかということも、小林秀雄はものすごくこだわったひとだった。

僕がいま書いている原稿が、小林秀雄に匹敵するなどということを、もちろん言おうとしているのではないのだけれど、でもそれなりに共通するとおもえるところもあって、それが最近おもしろいのだ。
書こうとする内容は、それに付随する専門知識という意味でも、またその深さという意味でも、けっこう膨大なもので、だから到底、頭で考えきれることではない。だから朝、PCのまえに座ると、これがいちばん辛いのだが、まず「雑念を消す」ということが必要になるのだな。
そうすると徐々に、僕の「無意識」がうごきはじめるようなところがあって、ポイントだとおもえることがひとつ浮かぶと、そのもうすこし詳しい構成がつづいてすぐに浮かんできたりして、そうすると無意識君のほうはもうブイブイエンジンがかかって、まえに進みたがるのだ。
そこで初めて「頭脳」の出番となり、資料を調べたりもしながらパチパチと入力して、無意識のあとを追いかけるということになる。
毎朝、書きはじめる前は、「今日は書けないかもしれない」とおもうのだけれど、我慢して座っていると、ひとまとまりの内容が意外に書けたりする。

それで最近は無意識君、気分が良くなってきてしまったみたいで、朝もけっこう早く目覚めて、まえに進みたがるということになってしまっている。頭脳のほうは、もうちょっとゆっくりやってくれてもいいんだがなとボヤきながら、渋々あとから付いていっているという次第。

昨日の晩めしは豚汁。
最近はほんとに、汁物をつくるのが楽しくなってしまって、まあ僕は、以前から料理のなかでは「煮る」のがいちばん好きなのだけれど、このごろは甘みを前面にだし、塩気をすこし控えめにするという、味付けのコツをつかんでしまったために、つくるものがイチイチうまくて、以前に輪をかけて楽しいのだ。
昨日はギリギリまで、味付けを醤油にするか、味噌にするか、迷ったのだけれど、このところ醤油がつづいていたから、味噌にした。昆布とだしパックのだしに、酒とみりん、隠し味ていどの淡口醤油にたっぷりの味噌。アクも取らず、ショウガもニンニクも入れなかったが、いやはやこれもばっちり、七味をかけて食べたら死ぬかとおもうくらいうまかった。

今日の昼は、「ikoi cafe」で週刊文春。
ランチは「小判焼き」。
林真理子のエッセイは、今週も笑えた。