2010-11-08

意識(4)

郡司氏が理論の中に、「観測」という決して客観的に見ることができないものを持ち込むということは、「科学は客観的でなければならない」という精神からは、はっきりと反するものになる。さらに郡司さんの理論をよくよく考えてみると、なんとも不思議な世界が現れてくるのだ。

「人間が観測を行う」ということは、誰にでも納得できるだろう。お母さんは赤ちゃんの泣き声に、自分自身の内側で、あ、おっぱいが欲しいんだとか、おむつ替えて欲しいんだ、という「全体」を見る。

犬や猫が、やはり「観測」を行うということも、まあ納得できるだろう。犬は飼い主と気持ちを通じ、お散歩に連れていってくれるのかどうか、瞬時に知ることができる。アメーバが、まわりの養分を検知して、そちらに泳いでいくということも、観測であると言っても違和感はないだろう。

しかし例えばこういうことがある。これは郡司さん自身は、そこまでは言っていないことで、あくまで僕が考えたことなのだが、40億年前、初めての細胞が生まれる、その前の時代。まだ生き物と言えそうなものは存在しておらず、DNAやらタンパク質やら、そういった分子だけが、世界にあっただけの時代。そこに「観測」は存在したのか。生命の本質が、もし「観測」というところにあるのだとしたら、生き物が生み出される現場には、まだ生き物らしきものは存在していなくても、観測は行われていると考えなければならない。人間はおろか、細胞の一つもなかった時、それでは誰が、何者が、観測していたというのか。

さらにもし細胞が存在する以前から、観測が行われていたと考えるとするのなら、それでは宇宙が始まった、100億年前、まだ分子はおろか、原子すらもなく、いくつかの素粒子が存在するだけだった時代、観測は存在したのか。

郡司さんがそんなことをひとことも言っていないところで、何も知らない素人がこんなことを考えることは、まったくもって早計の極み、妄想とも言えることであるわけなのだが、それを承知であえて言うとするならば、僕は100億年前に、「観測」があったらいいなと思う。いや、あった筈だと思うのだ。

「生命とは何か」というものを、もし本当に明らかにすることがあったとしたら、それは「理論」という形でなければいけない。具体的な個別の生き物が、それは犬や猫やアメーバが、それぞれどういうふるまいをするものであるかということも、もちろん大事な課題だが、「生命とは何か」を明らかにするとは、その全てに通底する何らかの理論を探すということであって、そしてその理論は、生き物が40億年前にいかにして生まれたのかを説明できなければならない。今の実際に存在する生き物についての理論が、40億年前や100億年前に、同じように成立すると、とりあえず考えていけない理由はないし、また逆に、そういう理論こそが、真の理論であると言えるはずだ。

それは物理学の世界では、当たり前のこととして考えられている。現在の物理現象から導きだされた理論である、量子力学や相対性理論は、100億年前にも同じように成り立っていたと、当然のように仮定されている。それによって、宇宙がどのようにして出来上がってきたものなのかを、初めて考えられるようになり、ビッグバンの理論が提唱されるに至っているわけだ。だからもし郡司さんの、観測を含みこんだ理論が、正しい理論であるとするならば、それは当然100億年前にも成り立っていたと考えられるはずなのだ。

そこで、まだ生き物が存在しもしないうちから、「観測」という、人間や生き物だけが行うことであるように見えるものが存在するということが、なんとも不可解なことなわけなのだが、それには実は先例がある。量子力学だ。量子力学というものは、「観測」を含みこんだ理論体系なのだ。

(つづく)