2010-10-23

豚バラと水菜のみぞれ鍋

いや鍋はうまいな、と、どうしても冒頭に書きたくなってしまうのだ。鍋というものが、なぜこんなにうまいのか、去年から疑問に思っていて、今年になって、材料が生のしゃっきりしたところから、火の通ったやわらかなところへ向かう、その途上の、まさにしゃっきりとやわらかがせめぎ合う、いちばんスリリングなところを食べるからではないかと、いちおう結論として落ち着いたつもりだったのだが、いやでもやはりそれだけではないな。

この鍋のうまさというもの、たしかに実際にうまいということも、もちろんあるのだが、うまいと思わされてしまう、ということも、どうもあるような気がする。僕はほぼ毎晩、自分で作った食事をこうやってブログに書いているわけだけれど、毎回決まって、冒頭に「うまい」と書きたくなってしまうのは、鍋だけなのだ。鶏もも塩焼きだって、十分うまいのだが、ここまでうまいということを強調するという気には、べつにならないのだ。

これはたぶん、「鍋」という名前に関係があるな。「鍋」って何なんだ。普通は、「焼き」とか、「炊いたん」とか、料理の名前にはだいたい、具体的な料理法が付くものなわけだが、鍋ってのは、調理器具の名前じゃないか。料理法として言えば、これは、煮るとか、炊くとか、ほんとはそうなっても良さそうなところを、あえて「鍋」と呼ぶ。料理の名前の付け方の、標準的なルールに違反しているわけだよな。

そうやって、名前に料理法としての説明が足りていないことにより、どうなるかというと、例えば煮物を評価する場合だったら、「よく味が染みている」とか、鶏もも塩焼きだったら、「皮がパリパリだ」とか、その具体的な料理法にたいする結果として、言い表すことができるのに対して、鍋はそういう説明ができないことになり、だって「火が通っている」と言ったって当たり前だし、「味付けの加減がよい」と言おうとしても、ポン酢で食べたりしたら味付け自体が存在しないわけだし、そうなると、「うまい」としか言いようがないと、鍋というものは、それを肯定的に評価することばとして、「うまい」というものしか存在しないと、そういうことなのじゃないか。

うーん、これはどうだ。僕はかなり解ったような気がするな。「うまい」としかいいようがないから、僕はこのブログで、鍋となると毎度、うまいうまいと叫んでしまうわけだ。それだな、たぶん。

豚バラ肉は、そのまま鍋に入れてもいいんだが、熱湯にさっと通しておくと、あとでアクが出ないのでラクだ。ただあまり念入りにやってしまうと、うまみまで抜けてしまうから、注意が必要だ。

鍋に材料を全部並べて、昆布を浸しておいた水を、昆布と一緒に入れて、酒をどぼどぼと注ぎ、火にかける。沸騰したら、うすくち醤油をじゃばじゃばと入れて、大根おろしを汁ごとのせて、火を弱める。まだあまり火が通っていなくても、かまわないのだ。それから食べているあいだ、火を最弱のとろ火にして、沸騰しないようにおいておくのだが、そうするとそのあいだに徐々に火が通って、また汁のコクも増し、味もしみる。

器によそって、七味をかけたりしても、またうまい。