2010-08-10

晩 酌

毎回こうやって、自作のへぼ料理を陳列しては、このブログを見てくれている人の目を汚している僕なわけだが、もともと手仕事が好きな性分で、料理もそういう意味で、カレーを作ったり、鍋をやったり、まったくしないわけではなかったのだけれど、料理のおもしろさがわかるようになったのは、やはり一人で暮らすようになってからだ。
暮れになって、正月を一人の自宅ですごす決意をしたわけだが、お節はどこかで買えるとしても、雑煮は自分で作らないといけない。
やり方をうろ覚えで知っていた、鶏がらだしの雑煮を作ろうと思い、鶏がらを買ってきて、やってみたら、大変うまくできて、またうまいだしというのは、雑煮だけじゃなく、鳥の水炊きに使ってもいいし、ナスか何かを煮てみてもいい。
そのだしを使って、何を作ろうかと、自分で考えるようになるわけだ。
それまで僕は、料理というものは、本に書いてある通りの材料を買って、本に書いてある通りに作るものだと思っていたのだが、自分でこういうものを作ろうと考え、実際にやってみて、食べるとうまかったりまずかったりして、そしてそれを踏まえて、また次のやり方を考えるという、そういうことの楽しさを知ってしまったのだ。

またものを食うということは、人間にとっていちばん大事な、基本的なことなわけで、人類の歴史100万年のなかで、何人の人間が生まれて死んだかしらないが、それが全員、ちょっとでもうまいものを食いたいと思って、小さいながらも、日々努力を重ねてきたわけだ。
その膨大な積み重ねというものが、料理法というもののなかに蓄積されているのであって、よく一人暮らしをしている男が、自分ひとりのために料理を作るのはむなしいとか、言うのを聞くことがあるけれど、気持ちはわかるが、料理というものは、自分ひとりのために作っても、十分楽しめるだけの、深さと広さをもったものなのだと僕は思う。
あまりに身近なので、あまり意識されることはないが、料理というものは、人間にとって、文化の中枢であると言っても、過言ではないものだと思うのだな。
そういうものに触れる喜びを、知らない男も多いと思うが、それはいい奥さんがいて、全部やってくれるということだと思うけれども、それが幸せなのか、不幸せなのか、わからないなと僕は思う。

というわけで、このところ前置きが長くなっているのだが、今夜は鶏もも肉の塩焼き。
塩をおもてうらすり込んで、じっくり焼いて、青ネギとレモン汁をかけるというだけの話だが、こういう簡単なものが、つくづくうまかったりするよな。

水菜のおしたしは、いつも霜柱のように、たてに突き立てて盛り付けてるのだが、今日はほぐしてみた。
このほうが食べやすい。

新しい徳利、酒の味が以前とちがうこと、まちがいない。
でも考えてみたら、土鍋で炊いたご飯が、おいしかったりするわけだからな。
不思議じゃないよな。
ただこれは、電子レンジじゃだめだろうな。
お湯で燗つけるから、こうなるのだろうな。