2010-03-09

京都壬生中川町 「こぶ志」

僕はこうして、毎日ラーメンを食べているわけだが、健康的にはどうかと思うし、有機野菜を栽培する農家に嫁いだ僕の妹が、このブログを見て、「お兄ちゃん、そんなに毎日ラーメンを食べるのは、死への道一直線だよ」と言っていて、たしかにその通りかもしれないとは思うのだが、それじゃそれだけ毎日ラーメンを食べて、飽きるのかと言えば、飽きない。世にはラーメン評論家と言われる人たちがいて、その人たちは毎日どころか、毎食ラーメン、遠征などをすると、一日に6杯も7杯も、ラーメンを食べるそうだが、これは健康には、良くないどころか、たしかに悪いだろうが、その人たちも、それだけラーメンを食べて、飽きるのかと言えば、飽きないのだろう。飽きないだけの面白さがあるから、ラーメン評論家という、これは職業なのか、それが成立するわけだ。

それではそのラーメンというもの、何がそれほど面白いのかといえば、これは前に書いたこともあるのだが、ラーメンというものが従っている、「ルール」の厳しさによるのじゃないかと思うのだ。ラーメンというものは基本、肉のだしと醤油味を合わせるものだが、肉のだしと醤油味って、本当はそのままでは、合わないものではないかと思うのだ。醤油というのは元々、魚の味に合わせるために発展してきたもので、実際中国でも、味付けは基本は塩味だしな。それか、醤油をつかう場合は、八角とかそういう香辛料を一緒に使う。詳しくは知らないが。魚のだしに醤油というのは、それだけで十分うまいから、それ以上どうのこうの、しようがない。だからもう発展もしない、ということではないかと思うが、肉と醤油というのは、元々合わないものだけに、工夫の余地が出てくるわけだ。

肉と醤油を合わせる場合、日本では普通、思い切り甘くする。豚の角煮とか典型だ。または、酸っぱくする。これはウスターソースとか、そうだよな。こうすると、自分の大好きな醤油味と肉とがうまく合うことを、明治以降、日本人は見つけてきたのだと思うのだが、ところがラーメンの場合、これは後発の食べ物で、すでに他に色んな食べ物がある中に、入り込まないといけなかったということだと思うが、甘くても酸っぱくても、ラーメンではなくなってしまうのだ。これは肉と醤油を合わせるための、強力な二つのやり方を封じられてしまって、両手を縛られたままで戦わなければいけない、飛車と角を落として将棋をしなければならない、というようなものだ。それでもなんとかしないといけないという試行錯誤が、結果としてこれだけの、莫大な種類のラーメンというものを、生み出してきたのじゃないかと思うのだよな。難しい状況を何とか乗り越えなければいけないという、その工夫が、ラーメンの面白さというものなのじゃないかと思うのだ。

と、以上はまったくの余談なのでしたが、この「こぶ志」のラーメン、僕がよく利用している「超らーめんナビ」によると、京都市でおすすめ第2位なのだ。「達人」と自らを呼ぶラーメン評論家の人たちが、強力におすすめするラーメンなわけだが、この人たち、魚のだしを強めに使ったラーメンを出す、カウンター席のみの小さな店に、高い得点がつく傾向があって、僕はそういうラーメン、良いとは思うが、それほど好みじゃないのだが、実際このこぶ志も、そういうラーメン屋。

「塩系ラーメン」と「醤油系ラーメン」、それにつけ麺があって、僕はメニューの上に書いてあった「塩系ラーメン」にしたが、澄みきった鶏ガラスープに、魚の風味がぷんと匂う。ちょうどお好み焼きみたいな、そういう風味だ。澄んではいるが、コクのあるスープに、全粒粉を使っているという細めの、素朴な味わいの、ちょっとソバみたいな食べ心地の麺が、なんともよく合う。

チャーシューは、「塩釜チャーシュー」というのだが、ちょっとローストビーフみたいな、塩味の、中がほんのりピンク色になっているもので、またこれがぷりぷりしていて、淡い味付けのスープにもよく合って、かなりうまい。こういうぷりぷりチャーシュー、昨日につづいて、京都で初めて食べたものなのだが、これはいま流行っているのか。あとはメンマと青ネギのほかに、チンゲン菜と白ネギも入っていた。

ほんとに洒落た、和風のラーメン、外の人間が「京都のラーメン」と聞いて、まずイメージするのは、こういうものだろうな。稲荷も、中にたっぷり具が入ってうまかった。こういう洒落た食い物は、野蛮な僕の好みではないとは言え、よくできたラーメンだとは思う。

ラーメンは650円、キムチ250円、稲荷150円。