2010-01-27

小林秀雄全作品26 「信じることと知ること」

この小林秀雄の全集、第26巻には、1966年から1976年、小林秀雄が64歳から74歳までの10年余りに書いた文章が収められている。この期間はちょうど、小林秀雄が「本居宣長」を連載していた期間であって、だからこの巻には、小林秀雄が本居宣長以外に書いた文章が入っているということになる。10年分で1冊だから、いかに少ないか。ほとんどが、おそらく義理があって、断ることができなくて書いたものなのだろう、全集の序文やら、追悼の言葉やら、親しい人との対談やらで、小林秀雄がこの10年間、どんなに本居宣長に集中したのかがよくわかる。

そうしたもののなかで、異彩を放つのが、この巻の表題にもなっている、「信じることと知ること」である。昭和49年に鹿児島県の高校で講演したものを、小林秀雄が改めて、自分で手を入れたもので、この時の講演の録音は、CDになっていて、それは先日、僕が買ったものなのだが、講演と文章を見比べると、なかなか面白く、小林秀雄の創作の秘密に触れるような感じもする。
話の流れはだいたい一緒なのだが、一つ一つの文章は、ほとんどすべてと言っていいくらい、書き換えられている。書下ろしと言っても差し支えないんじゃないか。「魂はあるかないか、あるに決まってるじゃないですか」というような、断定的な表現は姿を消し、しかしそのことを、誰でもが受け入れることができるような、全編にわたる多数の表現として、置き直している。そうなんだよな、小林秀雄は、自分にとって一言で断定できること、自分自身は間違いなく信じていることを、世の中の人が受け入れられるような表現に、どう紡いでいくことができるかを、おそらく生涯をかけて問い続けた人なのだな。

この「信じることと知ること」にも変わらず流れている、小林秀雄が一貫して言い続けた内容は、自分自身が心を虚しくして、何かに向かい、そこで感じたり思ったりしたことは、自分自身という、誰に作られたものでもない、生命体、内なる自然の中で、たしかに起こった事実なのだから、それがどんなに、世の中で一般に言われていることと食い違っていたとしても、あわてて否定する必要はない、それをそのまま口にするかどうかは別としても、事実として受け止めることが大事なのだ、そこからしか、人間というものは、本当のスタートを切ることはできないのだ、ということだ。

猟師が山の中で、白い鹿を見た。白い鹿は山では、神様として崇められており、猟師はそれを撃ちとることは躊躇したが、しかし猟師としてのプライドにかけて、弾を発射した。たしかに命中したはずなのに、鹿は動かない。今度は魔除けとして身につけていた、金の弾にヨモギを巻いて、再び撃ったが、それでも鹿は動かない。そこで猟師は、おそるおそる白い鹿に近寄ってみると、それは白い岩だった。ここで猟師は、強い衝撃を受ける。数十年におよぶ猟師生活、自分は岩と鹿を、間違えるはずがない。これはまったく魔障のしわざに違いないと、この時ばかりはもう猟をやめようかと、真剣に考えた。

これは「信じることと知ること」に引用された、柳田国男という民俗学者の文章だが、白い岩を見て、単なる自分の間違いと思うのでなく、魔障の仕業と信じること、そしてその信じたことに、自分が責任をもつということ、人間が生きるということは、本来、そういうものじゃなかったのかと、小林秀雄は繰り返し、僕らに語ってくれているのだ。