2009-07-15

小林秀雄全作品9 文芸批評の行方

前巻第8巻が、丸々一冊、アランという哲学者の文章の翻訳だったので、第9巻、久々の秀雄節、嬉しくて一気に読んでしまった。この巻は昭和12年、小林秀雄35歳の時の文章が収められている。小林秀雄、いよいよ脂が乗って、充実した仕事ぶり。この本の副題になっている「文芸批評の行方」はその中の一篇、中央公論に掲載された論文の表題。

小林秀雄は「近代文芸批評の祖」とか言われたりするのだが、実際批評の伝統が脈々と根付く西洋に比べて、日本の批評文化は薄弱で、小林秀雄は学校を卒業して、あまり考えもせずに文芸春秋の文芸時評などをやるようになり、文芸批評家として世に出てしまったわけだが、批評家になってしまってから、批評とは何かということを、周りに教えてくれる人もいない中、自分で真剣に考えなければいけないことになってしまったのだな。日本は田舎だから、自分の作品を悪く批評されると、ただ感情的に反発する作家などというのも多かったのだろう、小林秀雄は悩んで自殺の淵をすらさまよったりもしながら、自分の進んでいく道を、なんとか見つけようとしていった。そしてここに至ると、それはもう余裕すら感じさせる趣きとなっている。以下はその、「文芸批評の行方」の末尾。

極く常識的に考えても、世間には芸術の仕事と科学の仕事との対立が見られる。芸術家、科学者がそれぞれ考えている処より見ず、その行うところより見れば、両者は各自の分野を守って仕事をしているのが見られる。ところが、その中間にある批評家の仕事の分野ほど曖昧なものはない。文芸評論の、一方文学に似、一方科学に似ているという中間的性格は、傍人から見れば、単なる曖昧さだ。又所謂芸術家やアカデミシャンの批評家に対する漠然たる軽蔑の念をそそるのも、批評的作品の曖昧さなのだ。併し批評家に、この曖昧さが絶対に逃れる事の出来ぬものである以上、これを批評家は消極的に解する事は出来ぬ。批評的意識とは、その精髄より言えば元来科学的分析と創造的意欲との間に引きさかれている精神だ。そういう場所に居心地の良さを感じ、そこから仕事の糧を汲み取る言わば危機的な意識に他ならぬ。「批評や批評の精神を批評しない批評家は、中途半端な批評家に過ぎない」とチポオデは言ったが、恐らくは達し難いものにせよ、そういうところに明確な批評家たる像を掴もうと不遜な想いに常に憑かれていない限り、批評家は真に創造的な批評を書く事は出来ないだろう。
「科学的分析と創造的意欲に引きさかれている精神」って言葉、いいな。

それから僕がこの全集を読むに当たってのもう一つの興味があって、それはその当時の時代の空気というものを、小林秀雄の作品から間接的ではあるが、感じてみたいということなのだ。この年昭和12年、盧溝橋事件が起こり日中戦争が始まり、これから太平洋戦争に向けて日本は奈落の底へと転げ落ちていくわけだが、そういう戦前、戦中、そして戦後、社会が実際どのようなものだったのか、そして小林秀雄が、それにどう、対していったのか、ということが知りたいと思うのである。実際この巻あたりから、そういうことについての記述も散見できるようになってくる。

ある雑誌から時局に鑑(かんが)み、支那文化に就いての意見を問われた。戦争が始まったのを期として僕の支那文化に関する貧弱なる知識が当然豊富になるなどという奇蹟は起こり得ないから、断った。ある雑誌から時局に対する文学者の態度に関する座談会を開催したいからと出席を求められた。編輯者とこんな会話を交わした。
「戦争に対する文士の態度という特別な態度でもあるのかい」
「無いでしょうね」
「だから僕は断るよ。一と言ですんで了(しま)うもの。戦いは勝たねばならぬ。同感だろう」
「同感だ」
「だからなるたけ一と言で話しが済まない奴を集めないと成功しないよ」
「無論そうだ。だから欧洲大戦の時、向こうの文学者のとった態度という様な事を話して貰(もら)おうと思っている」
「そんな知識は僕は皆無だから駄目だ。あっても今更間に合わないし、吾が国では間に合わない」
「では貴方は出て来なくてもよろしい」
「無論出ないさ、出るくらいなら従軍記者になる」
戦争についても他のことと同様、よく知りもしないことを、ぺらぺら口だけで喋るな、ということなのだな。