2009-05-25

小林秀雄全作品6 私小説論

相変わらず小林秀雄を、読み続けているのだ。
休日にはちょっとまとめて、あと平日の空き時間にチョコチョコ読むのだが、何がいいって、毎晩寝る前の30分が、読書の時間になったこと。
下手な小説やミステリーなどを寝る前に読んでしまうと、面白くなってやめられなくて、目がギンギンに冴えて眠れなくなってしまうことがあるが、小林秀雄は適度にわかりづらいので、心地よく眠りに落ちることができる。
睡眠薬代わりに最高だ。
そんなことか。

この全作品6は昭和9年後半と昭和10年、小林秀雄32歳と33歳の時の作品が集められているが、この頃小林秀雄は結婚し、生活も安定して、心身ともに充実し、仕事盛りの時期に突入していく、ということなんだな。
文芸批評家として身を立てていくことに腹を括り、それでは文芸批評とはいかなる物なのかということについて、考え抜いた頃なのだろう。
そしてその末、自分が生涯をかけて追求したいと思えるテーマを見つけたということだと思うのだが、それについて決意表明とも言えることを書いた所がある。

「僕がドストエフスキイの長編評論を企図したのは、文芸時評を軽蔑した為でもなければ、その煩(はん)に堪えかねて、古典の研究にいそしむという様なしゃれた余裕からでもない。作家が人間典型を創造する様に、僕もこの作家の像を手ずから創り上げたくてたまらなくなったからだ。誰の像でもない自分の像を。僕にも借りものではない思想が編みだせるなら、それが一番いい方法だと信じたが為だ。僕は手ぶらでぶつかる。つまり自分の身を実験してくれる人には、近代的問題が錯交して、殆(ほとん)ど文学史上空前の謎を織りなしている観があるこの作者が一番好都合だと信じたが為である。無論己れの教養のほども省みず、こういう仕事に取附く事の無謀さはよく分かっているが、僕等に円熟した仕事を許す社会の条件や批評の伝統が周囲には無い事を思う時、僕は自分の成長にとって露骨に利益を齎(もたら)すと信ずる冒険を喜んで敢(あ)えてするのだ。駄目かも知れぬがやってみる。どんな人間を描き出すか自分にもわからないが、どんな顔をでっち上げたとしても、僕が現代人である限り、人々に理解出来ぬものが出来上る気づかいはない。それで僕には沢山だ。果して乱暴な批評家か。それとも何かもっとうまい理窟でもあるというのか。うまい理窟には飽き飽きした。僕は今はじめて批評文に於いて、ものを創り出す喜びを感じているのである。」

何という初々しい、夢と希望に満ちあふれた文章。
批評というものが、単にある文学作品を客観的に評するというものとしてではなく、それそのものが創造行為であるような、そういうことをやりたい。
いいよな、そういう風に思える人って。

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