2008-05-24

『思考の補助線』 茂木健一郎著

この本は、まとまった論を理路整然と展開する、といった類のものではない。創作メモか、または日記のようなものに近い。著者は四十歳半ば、ぼくと同じ年。これから人生で一番、脂が乗り切った時期に差し掛かるに当たって、自分は何を見つけたかったのか、そのためにはどちらの方向に、どのように向かって行ったら良いのか、今一度確認したい、この本はそのために書かれたのだ。それがこのようにきちんと商品になってしまうところが、著者の人徳なのだろう。

繰り返し語られるのは、「意識」という問題。自然科学はあらゆる物体の運動について、詳細に記述することを可能にし、いまや脳細胞までもが、その対象となっている。しかしこの先、脳細胞がどんなに詳しく記述されたとしても、人間が様々な物事に対して、生き生きとした感動を伴いながら感じる、そのような意識の作用は言い表すことは出来ないに違いない。そうであるとしたならば、意識という物が存在することに間違いはないのだから、どのようにしたらそれを記述することが出来るのか、著者は七転八倒しながら考えている。

自然科学は、記述する対象から、記述する主体、自分自身、そして自分の意識、それを取り除くことによって、客観性というものを確保し、成立している。意識の居場所はないのである。居場所はもちろん、自分自身の中にあるわけだが、それがただ自分の中にあるだけでは、誰もそれを見ることができない。感動は、それを言葉によって表現して初めて、他人にとっても存在するものとなるのである。人間は誰でも日常において、言葉によって様々なことを表現する。それは即ち、その人の意識の表現なのである。

意識がどのようなものであるのか明らかにしたいと思ったら、それが言葉によって表現されたもの、それを対象と考えなくてはいけない。そのような言葉による表現の、一方の極に、自分を完全に外側に置いた、客観的なスタイルがある。もう一方に、自分の内側だけを見た、哲学のような表現がある。しかしその両極の間には、様々な表現がなだらかに分布しているのである。そのような表現の全体を、自然記述の枠組みとしてどう捉えることが出来るのか、それが課題なのだろうと思う。

言葉による表現は、人と人との関係、場を生み出していく。その場のあり方は、意識というものの表現そのものとなっている。すべてを明確に表現することで、人と人との関係が切れ、場が歪むことがある。表現されなかった部分は、場のあり方に置き換えられていくのである。

世界全体を引き受ける。これが著者の若い頃からの野心だそうだ。ぼくも負けないぞ、と思う。ぼくたちの世代が今、何をするのかが、これからの世界を作っていく。世界は一人一人の、意識の表現なのだ。

ちくま新書、720円+税。


思考の補助線 (ちくま新書 707)