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2008-08-17

DVD 『グラインドハウス』 (プラネット・テラー、デス・プルーフ)

※以下はネタバレしていますので、ご注意ください!

 

クェンティン・タランティーノとロバート・ロドリゲスの製作。
アメリカでの公開時には、二人がそれぞれ監督した作品を2本立てとしたが、日本での公開およびDVDは、それぞれが別々になっている。

「グラインドハウス」とは、アメリカの大都市周辺にあった、B級映画ばかりを2~3本立てで上映する映画館のことで、この作品はそのグラインドハウスの雰囲気を取り入れ、再現している。
画面にはフィルムの傷に模したノイズが全編に渡って挿入され、また画面自体も薄ぼんやりして昔のB旧映画の雰囲気を醸しだしている。
途中でフィルムが焼け切れる様子が挿入されたり、またわざと場面の前後の脈絡が通じないように編集されていたりする。
架空のB級映画の予告編が本編の前に上映され、またそれらしい館内告知も入っている。
映画の本編だけでなく、B級映画館の雰囲気も楽しんでもらいたいという、タランティーノらしいアイディアである。

そもそも実写の映画というものは、実際の人物や風景が映し込まれるわけだから、観る人にとっては強い現実感を呼び起こす。
もちろん実際には映画は現実ではないし、多くは現実からかけ離れたものである訳だが、観る人が本能的にそれを現実と感じてしまうということを大きな武器として、映画の表現は成立しているだろう。
演技だと分かっていても、主人公に感情移入して涙してしまったり、本当は死なないと分かっていても、登場人物が死んでしまうのではないかとハラハラしたり。
映画によって引き起こされるそのような感情の動きが、映画が娯楽であるということについてのキモとなっている訳である。

それに対してこのグラインドハウスは、画面に傷を入れたり、架空の予告編を挿入したりすることにより、この映画が現実とははっきり切り離れた、あくまで昔のB級映画のパロディーなのだということを、観る人にあらかじめ伝える。
ダイ・ハード』がその題名で、「主人公が死なない」ということをあらかじめ伝えるのと、やろうとしていることは同じである。
ダイ・ハードがそれによって、「あまりに現実離れした内容を、白けるのではなく、笑えるものであると捉える」ことを、観る人と盟約を結ぶのと同じように、この映画は二つともホラー映画で、かなりの血しぶきが飛ぶのだが、それはあくまで記号であり、怖がるのではなく笑って観るものであることを、観客に伝えようとしている。

しかしもちろん、肉がちぎれ、血しぶきが飛ぶ場面を笑って観るだけでは、そういうことを観たい人にとっては良いが、それ以外の一般大衆にとってはお金を払って観るに値するものにはならない。
そこに一歩踏み込んだ何かがあって初めて、この映画は一つの作品たり得ることになる。
ロバート・ロドリゲスはそれに、かなり成功したと思う。

ロバート・ロドリゲスが監督した『プラネット・テラー』、まず主人公の、「片脚がマシンガンになっている美女」という設定が、たいへん良いと思う。


腕が機関銃であるというのはまだ分かるし、実際今までもそういう設定はあった訳だが、脚が機関銃といって、だいたいまず歩きにくそうだし、撃ちにくそうだし、いい所なさそうなのだけれど、何かその、間違ってしまったのかな、という感じが、笑いを誘うと思う。
おそらくロドリゲスは、まず初めにこのキャラクターを思いついたのだろう。
この美女がどのような悲劇の中で片脚を失うのか、何故失った片足にマシンガンが装着され、そしてどのような活躍をするのか、想像するだけで楽しくなるし、実際映画はその期待通りの荒唐無稽な内容になっている。

化学兵器の流出により大量のゾンビが生まれ、ゴーゴーダンサーであった主人公はそのゾンビにより、片脚を食いちぎられてしまう訳だが、失意の中、恋人の手厚い献身により新たな脚を得、生き残った人間たちとの新たな世界を担う中心人物に成長していく。
ストーリーは使い古された陳腐なものと言えるが、逆にこのパターンはディズニー映画も繰り返し使用する、感動に導くための黄金のストーリーとも言える。
辻褄が合わないところが多く、場面も「フィルムを一巻紛失しました、すみません。支配人」みたいな告知が表れ、ゾンビとの戦闘場面が丸々省略されて次へ行ったりするのだが、主人公の心の動きだけは、ていねいに省略なく描かれている。
というか、主人公の心の描写を厚くするために、ストーリー的に冗長になりそうなどうでもよい部分を、都合よくカットしている、という感じなのだ。
だから全くあり得ない設定の、馬鹿馬鹿しい内容なのだが、最後には妙な感動と爽快感がある。

またマシンガン女を演ずるローズ・マッゴーワンが、とてもとても良い。


監督ロバート・ロドリゲスと恋仲だそうだ。
もう35歳で、これまであまりぱっとしない映画にしか出ていない、ちょっとトウの立った女優という感じなのだと思うが、ロドリゲスによって発掘され、開花させられたのだろう。
ロドリゲスとの息もぴったりと合い、ロドリゲスがこの映画によって伝えたいことを、もれなく伝えているという感じがする。

さらに映像画面の一つひとつが良い。
やはり映画は、映像画面そのものもがどれだけ力を持てるのか、ということが、最終的には勝負なのだろうと思う。
黒澤明監督が、完璧な映像表現を得るため、カメラに映らないところににまで大道具、小道具を作り込んだり、自分の望む天候になるまで何日もスタッフや役者を待機させたり、ということは有名な話である。
ロドリゲスは、監督、そして脚本はもちろん、撮影も自分でやり、さらには最新設備のスタジオを自前で持って、そこで編集まで、自分でやるのだそうだが、場面の一つひとつに神経が行き届き、創意工夫がみなぎっていることを十分に感じさせる。
これまでのB級映画の様々な場面を、パロディーとして持ってきているのだろうなと思わせる場面も多いのだが、その一つひとつが決まっている。
エログロナンセンス全開なのだが、その一場面一場面にいちいちニヤリとさせられる。
そんな場面が絶妙のテンポで続いていくので、この映画を観ることそのものが快感なのである。

ロバート・ロドリゲス、これから楽しみにしたいと思う。


それに対して、クェンティン・タランティーノ
この人、映画監督にはあまり向いていないんじゃないかと思う。
いや僕が言うのも何だけど。
ひとことで言うと、マニアなのだ。
元々レンタルビデオ店の店員として働く傍ら、映画の脚本を書いたという苦労人だそうで、日本のエログロ、バイオレンス系の映画についてもたいへん造詣が深いそうだが、この『デス・プルーフ』を観て思うのは、タランティーノは、自分が興味があるマニア的なことについては異常な執着をもってこだわるのだが、それ以外のことについては全く興味が持てない、そういう人なんじゃないかということだ。

たぶんこのグラインドハウスという設定を考えたのは、タランティーノなのだろう。
ロバート・ロドリゲスはその設定をうまく生かし、安っぽい中に本物の感動がある、素晴らしい映画を作り上げたのだが、一方タランティーノはB級映画という設定を、「自分の趣味を徹底的に追求してよい」と理解してしまったのだと思う。
自分が考えた設定なのだけど。
それで、タランティーノは無類の足フェチ、拷問フェチとして知られるそうだが、この映画は自分のそうした性的嗜好を、真っ直ぐ追求してしまったのだと思う。


主人公である元スタントマンのマイクは変質者で、女の子同士の下卑た会話を盗み聞きするのが趣味。
そしてその女の子たちを無残に虐殺することで、性的興奮を得るのである。
それはそれでいい。
偉そうだけど。
ところがマイクが女の子を狙い、実際に自分の欲求を満たしていくというストーリー、十分に怖いホラー映画になり得るはずなのだが、この映画はそうなっていない。
女の子たちが延々と、意味のない無駄話を続けたかと思うと、唐突に無残に殺される、ということになってしまっている。

ホラー映画の怖さというものを、観客の立場として言えば、まずは最悪の結末が待っているのだという、観客にだけに暗示される予感みたいなものがあり、そこに主人公が、心の弱さや、他人の余計なお世話など、観客にとってみればじれったくなる理由のため、じわりじわりと近づいていってしまう。
いや、そっちじゃないんだ、そっちにいってはいけないんだ、主人公は何故気がつかないんだ、と観客は思いながらも、さらに主人公は破滅に向けて歩を進めてしまい、そして最後に初めの予感どおりの、または予感を超える、最悪の結末が待っている。
そういう作者と観客との間の綿密な手続きの連続が、ホラー映画の怖さを生み出すのだと思うのだ。

しかしタランティーノ、そのような手続きは、全く無視。
会話は完全に無駄話、そしてあるとき唐突にどかんと惨殺。
だから残虐シーンが、怖いというよりただ不愉快になってしまう。
もちろん全く笑えもしない。

これはたぶん、タランティーノにとっては、観客が存在していないからなのだ。
自分が映画を撮る、ということだけがあって、それは自分自身の変質的欲求を満足させることなのだ。
女の子たちの会話を延々と撮るのも、自分がそういう世界が好きだから。
その女の子たちが残虐に殺されるのも、やはり自分が好きだから。
秋葉原のオタクが、アイドルの女の子を写真に撮ったり、また死刑になった宮崎勤が、幼女を殺す場面をビデオに撮ったりしたのと、程度は違うが、やっていることは変わらないのだと思う。
観客はいわば、タランティーノのマスターベーションに付き合わされているのであって、さすがにそこまで暇じゃない、と僕は言いたい。

タランティーノは今回のグラインドハウスという企画、それはすごくいいと思うし、また『プラネット・デラー』の方に変質的な軍人役で出演もしているのだが、それもとても良い。
監督はやめて、プロデューサーと役者、というところでやっていったら良いのではないかと僕は思う。
大きなお世話だけど。

評価:
プラネット・テラー ★★★★★ 5
デス・プルーフ ★☆☆☆☆ 1

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